仙沼市小鯖集落の集団移転「新しい地域作りたい」
【模索 東日本大震災8カ月】(中)
浜の男女10人が公民館の和室へ集まった。今月4日、宮城県気仙沼市の半島部にある小鯖(こさば)集落。自治会役員の洋品店主、鈴木茂さん(57)が切り出した。
「高台への集団移転のことなんだが…」
集落は東日本大震災で6人が大津波にのまれ、遺体が見つからないまま死亡届が出された。155戸のうち53戸が流失または全半壊した。鈴木さんは「地盤が1メートル以上、下がったところもある。浜で家を再建することは難しく、移転を考えざるを得ない。震災から8カ月になり、国や市の方針も固まってきた。皆で考える時期にきた」と話す。
集団移転は、国の「防災集団移転促進事業」により宅地が造成され、道路や水道が整備される。平成5年の北海道南西沖地震では奥尻島の55戸が、16年の新潟県中越地震では115戸が移転した。今回、最大の被害を受けた宮城県の6月の試算によると、対象地区は宮城県だけで12市町59地区の1万3900戸に上る。
ただ、防災が目的であるため、事業の利用は元の土地へ戻らないことが条件となる。住み慣れた集落を捨てることになる。
◆「海と生きてきた」
明治29年と昭和8年の三陸地震、35年のチリ地震…。三陸沿岸の集落は数十年ごとに津波に襲われてきた。
気仙沼市の半島部にある只越(ただこし)集落。「図説宮城県の歴史」によれば、集落は明治29年の8・5メートルの津波で237人が死亡し、集落は少しだけ高い場所で再建された。昭和8年の7メートルの津波では24人が犠牲になり、今度はこぞって高台へ移転した。浜は畑になった。
ところが、40年代の高度経済成長期、宅地不足から浜へ三たび家が建ち始めた。建てた人々に8年の津波体験者はおらず、護岸や防波堤が整備された安心感があったという。
8年の津波の際に8歳だった集落の生き字引、梶川たけよさん(87)は高台の自宅で「皆、津波がおっかないから高台へ逃げたけど、分家した子供たちが浜へ戻った」と振り返り、こうつけ加えた。
「仕事も漁師や養殖で、海で生きてきたから海へ近い場所がよかったんだね。海と生きてきたから…」
◆最善の方法考える
只越集落は今回の震災で、14メートルの津波により三たび跡形もなく流され、5人が死亡・行方不明となった。住民組織が9月、流失した38戸のうち仮設住宅などで暮らす24戸へ尋ねたところ「集落を離れたくない」が11戸あった一方、「分からない」が12戸に上った。離れたくないと答えた人に複数回答で聞くと7戸が集団移転を希望し、「公営住宅にでも入りたい」との回答が5戸あった。
住民組織のまとめ役で、浜で1軒だけ残った商店の店主である亀谷拓也さん(53)は「集団移転は家を自費で建てる必要がある。だが高齢者の家は子供が東京や仙台へ出て帰らない。無理して借金して再建しても仕方がないから今後が『分からない』『公営住宅にでも』となる」と説明する。
一方で、若い世代はサラリーマンが増え、必ずしも海が生活基盤ではない。このまま時間だけがすぎれば彼らは浜を離れてしまう、集落がばらばらになってしまうとの危機感がある。
小鯖集落で自身も家を流された鈴木さんは「誰だって住み慣れた土地を捨てるのは忍びない。自分も小鯖へ帰りたい。でも、3メートルの建物の上を越えていったあの津波を経験した人は、絶対に戻りたいとは思わないと思う」と話し、こう続けた。
「それならば、小鯖のみんなで新しい地域を作りたい。子や孫たちが安全に暮らしていけるために、最善の方法を皆で考えたい」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111112-00000117-san-soci
※この記事の著作権は配信元に帰属します。
浜の男女10人が公民館の和室へ集まった。今月4日、宮城県気仙沼市の半島部にある小鯖(こさば)集落。自治会役員の洋品店主、鈴木茂さん(57)が切り出した。
「高台への集団移転のことなんだが…」
集落は東日本大震災で6人が大津波にのまれ、遺体が見つからないまま死亡届が出された。155戸のうち53戸が流失または全半壊した。鈴木さんは「地盤が1メートル以上、下がったところもある。浜で家を再建することは難しく、移転を考えざるを得ない。震災から8カ月になり、国や市の方針も固まってきた。皆で考える時期にきた」と話す。
集団移転は、国の「防災集団移転促進事業」により宅地が造成され、道路や水道が整備される。平成5年の北海道南西沖地震では奥尻島の55戸が、16年の新潟県中越地震では115戸が移転した。今回、最大の被害を受けた宮城県の6月の試算によると、対象地区は宮城県だけで12市町59地区の1万3900戸に上る。
ただ、防災が目的であるため、事業の利用は元の土地へ戻らないことが条件となる。住み慣れた集落を捨てることになる。
◆「海と生きてきた」
明治29年と昭和8年の三陸地震、35年のチリ地震…。三陸沿岸の集落は数十年ごとに津波に襲われてきた。
気仙沼市の半島部にある只越(ただこし)集落。「図説宮城県の歴史」によれば、集落は明治29年の8・5メートルの津波で237人が死亡し、集落は少しだけ高い場所で再建された。昭和8年の7メートルの津波では24人が犠牲になり、今度はこぞって高台へ移転した。浜は畑になった。
ところが、40年代の高度経済成長期、宅地不足から浜へ三たび家が建ち始めた。建てた人々に8年の津波体験者はおらず、護岸や防波堤が整備された安心感があったという。
8年の津波の際に8歳だった集落の生き字引、梶川たけよさん(87)は高台の自宅で「皆、津波がおっかないから高台へ逃げたけど、分家した子供たちが浜へ戻った」と振り返り、こうつけ加えた。
「仕事も漁師や養殖で、海で生きてきたから海へ近い場所がよかったんだね。海と生きてきたから…」
◆最善の方法考える
只越集落は今回の震災で、14メートルの津波により三たび跡形もなく流され、5人が死亡・行方不明となった。住民組織が9月、流失した38戸のうち仮設住宅などで暮らす24戸へ尋ねたところ「集落を離れたくない」が11戸あった一方、「分からない」が12戸に上った。離れたくないと答えた人に複数回答で聞くと7戸が集団移転を希望し、「公営住宅にでも入りたい」との回答が5戸あった。
住民組織のまとめ役で、浜で1軒だけ残った商店の店主である亀谷拓也さん(53)は「集団移転は家を自費で建てる必要がある。だが高齢者の家は子供が東京や仙台へ出て帰らない。無理して借金して再建しても仕方がないから今後が『分からない』『公営住宅にでも』となる」と説明する。
一方で、若い世代はサラリーマンが増え、必ずしも海が生活基盤ではない。このまま時間だけがすぎれば彼らは浜を離れてしまう、集落がばらばらになってしまうとの危機感がある。
小鯖集落で自身も家を流された鈴木さんは「誰だって住み慣れた土地を捨てるのは忍びない。自分も小鯖へ帰りたい。でも、3メートルの建物の上を越えていったあの津波を経験した人は、絶対に戻りたいとは思わないと思う」と話し、こう続けた。
「それならば、小鯖のみんなで新しい地域を作りたい。子や孫たちが安全に暮らしていけるために、最善の方法を皆で考えたい」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111112-00000117-san-soci
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